哀愁の街に霧が降った日にいた事はなく
東日本で何も蹴飛ばすこともできず
バタごニアがどこにあるのかも知らなく
四谷のびったんで清酒ねのひを呑むこともない僕たちは、
今日は四谷の地下でワインをグビグビとしていた。
そこで話した多くのことは、あまりにもバカバカしく声高にここで書くことでもないのだけど。
一般的言ってしまうと、酒呑んで話すことはあとから考えると、ほぼどうでもいいことなので、社会人の人たちが、飲みニケーションといっていることの殆どが嘘で、単に飲みを正当化しているだけだと思う。
そんな世界の中。
人の幸せ話と不幸話のどっちが盛り上がるかと言うと、それは圧倒的に不幸話。
幸せ話で時間が成立するのは、結婚式披露宴と成功話の講演会しかない。
ただ、それは多くの場合会話になっていない。
所謂一方的なスピーチになる。
幸せ話は成立しないのは、一つには日本人の奥ゆかしさがあると思う。
だって、そうでしょう。
幸せに共感し、自分がその上を行く幸せ話を語られると、はいはいはい!と場が白ける。
おそらくそこの空気はそういう風になって、時間がいたたまれなくなる。
その点、不幸話は面白い。
そしてその上をいく不幸話はもっと面白い。
不幸の連鎖が始まるとそれだけで時間が忘れられるほどになっていく。
不幸話をやっていって盛り上がって自分も大笑いする唯一の条件は腹を割って話せる人がいるか、口をわらない信じられる人だけかいうことだと思う。
そういう場で話せる不幸話ほど面白いものはない。
場が整ったら、ストレス発散の一番の場だと思う。
ただし、人の不幸は蜜の味といつも思ってやると、セクハラとはパワハラとかにすぐ結びついてしまうので、その空気感を嗅ぎ分ける能力は必要。
でも、面白いですね。
人の不幸話は。