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徳川家茂っていったい何歳だったのか?

息子の死と言うことで、今日は篤姫徳川家茂が亡くなりました。
「わしはまだ21歳ぞ。」と言うことを言っていたので、それを調べてみました。

いつもの、Wikipediaで。

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍
父が第12代将軍徳川家慶の実の弟で、第13代将軍家定の従兄弟にあたる。
将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主。初名は慶福(よしとみ)。
徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の長男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去した。祖父は徳川家斉、祖母は妙操院。正室は孝明天皇の妹・和宮親子内親王(静観院宮)。公式には側室は持たなかった(但し、関係のあった女性の噂があり、墓所の調査(後述)から妾の存在を示唆する意見がある)。4歳で紀州藩主となったが、徳川氏中、嗣子の無い第13代将軍・徳川家定に最も近い血筋の人物であるとして、譜代筆頭の井伊直弼南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となる。血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。


これは篤姫でも聡明に描かれていますが、本当にそうだったのですね。
 

慶応2年(1866年)、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒れた。この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。江戸城からは、天璋院和宮の侍医として留守をまもっていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、家茂は同年7月20日に大坂城にて薨去した。享年21(満20歳没)。将軍家茂は英明さと真摯さで幕臣達に慕われており、勝海舟などは「家茂さまの御薨去をもって徳川幕府は滅んだ」と嘆息したと伝えられる。

と言うことだそうです。


幕末・維新の中では、徳川家では徳川慶喜が有名で、僕なんかは、慶喜だからこそ無血な江戸城引渡があり、明治維新の幕府側の最大な功績は徳川慶喜と思っていたのですが、それって違うのではないかと思うようになりました。

家茂が21歳で亡くなっていますが、篤姫の旦那様の家定ってどうだったんでしょうか?


徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府第13代征夷大将軍
文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶の男子は殆ど早世し、生き残っていたのはこの家定だけであった。しかし、幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。その為、乳母である歌橋にしか心を開かなかったらしい。一説には、脳性麻痺であったと言われる。

家定は正室として鷹司政煕の娘・任子(天親院有君)[1]や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女・敬子(天璋院)との間にも実子は生まれなかった。

安政5年7月6日(1858年8月14日)、薨去。後を養子・徳川家茂が継いだ。

と言うことだそうです。

35歳で亡くなったのですね。


カステラを作ったりするなど、菓子作りが趣味だったとされている。

と言うことも書かれていますが、確かに篤姫の中でも餅を焼いたりするシーンが多くありました。


さて、この篤姫、いよいよ佳境を迎えています。


〔関連ページ〕
篤姫がなぜ面白いのかを考えた10の理由