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おもしろく こともなき世を おもしろく

いつも思うが、小田嶋隆さんのコラムは面白い。

面白いから単純に抜粋する。
抜粋すると本文から逸脱することもあるが、この場合問わない。

いや、いいだろうと勝手に思うことにする。


昨年来、角界の不祥事については、当欄だけでも、3回分の原稿をアップしている。書くべきことは既に書きつくした。できれば、相撲の話題には触れたくない。うんざりだ。相撲にも相撲報道にも。

八百長は、あってはならない出来事だ。少なくとも、建前の上ではそういうことになっている。
が、実態として、星の貸し借りは、相撲界に常在していた。ずっと以前から。おそらく日常的に。
しかも、相撲ファンのうちの少なからぬ層は、その存在に薄々気がついていた。
ただ、見て見ぬふりをしてきたのだ。
見たくないものは見ない。都合の悪い景色からは目を逸らす。ファンというのはそういう目を持った人たちだ。
信者は見るだけでは足りない。むしろ、目を閉じなければならない。でないと信仰を堅持することはできない。


相撲ファンの立場は違う。
われわれは、なにより相撲の存続を願い、その消滅を懸念している。
無論、きれいになってほしいとは思っている。
でも、きれいになった結果消えてしまうようなら、当面は、多少病根が残っても、とにかく生き残ってほしいと、そんなふうに願っている。それがファンの考え方だ。
一匹でもゴキブリのいる飲食店をすべて閉店に追い込んだら、オレらはメシが食えなくなる。町には、消毒くさいスカした高級店しか残らない。それでオッケーな人はかまわないのだろうが、オレはイヤだ。誰が3000円のサラダなんか食べる? 野菜ソムリエじゃあるまいし。

テリー・ファンク・ジュニアが著者に語った言葉だ。
「プロレスとかかわっていく上でいちばん大切なことは」
と、テリーは言ったのだそうだ。
「サスペンション・オブ・ディスビリーフだ」
なるほど。"suspension of disbelief"。英語で言うとちょっと素敵なフレーズに聞こえる。
直訳すれば「疑念を棚上げにすること」。
さらに平たく言えば、「あれこれ細かいトコ突っ込まんといてや」ぐらいになる。そう。プロレスは、リングの上だけのものではない。レスラーとレフェリーとリングアナウンサーと観客が一体になって作り上げる、ひとつの物語なのだ。

小沢さんの問題にも相通ずるところがある。
カネのかからない政治について確たるビジョンを持っていない面々が、組織の変革に手をつけてもいないくせに、出口のところのコンプライアンスだけを求めると、おのずから、カネの出入りについて矛盾点をあげつらう形で組織防衛を図らざるを得ない。と、当然のことながら、党はバラバラになる。ただ、このケースでは、トカゲが尻尾を切るのではなくて、尻尾の方がトカゲを切りにかかっている点が異例で、とすると、やはり干からびたアタマと、肥大した尻尾は、蛇足を奪い合って争って泥仕合を展開するのであろうか。

たとえば、昭和の時代のオフィスでは、営業経費や出張旅費の過剰請求分を積み立てて、忘年会のビンゴの景品購入代金に当てるような経理処理が、ごくごく普通に行われていた。
 が、21世紀に入ると、その種の丼勘定は通用しにくくなった。やれコンプライアンスであるとか、コーポレート・ガバナンスであるとかアカウンタビリティだとかいった赤毛組織論がやかましく喧伝されるようになってからこっち、昭和の手法で生成された資金は、容赦無く「裏金」と呼ばれるようになったからだ。
おかげで、課長の裁量権は嘘のように後退し、課を単位とした釣りや草野球の活動は、俄然継続困難になった。
昭和の時代はまた、様々な決済が「月末の段階で最終的につじつまがあっていればOK」とされていた時代でもあった。


たとえば、自動車を運転するドライバーは、「安全に走る」ことと「法を守る」ことが、必ずしも一致しないことに、度々違和感を感じている。
「流れに乗った」運転を心がけていると、いつしか制限速度を超過している。
昼間だと、制限速度プラス10キロ。深夜になると20キロオーバーぐらいが周囲の交通の流れにシンクロした場合の速度になる。もちろん違反だ。5キロオーバーであっても違反は違反。コンプライアンス的には完全にアウトだ。

こういうことが起こるのは、そもそも警察が設定している制限速度が、道路の実態に即していないからだ。
はじめから環七の制限速度が40キロでなく、60キロ制限になっていれば、私とて違反などせずに済む。かもしれない。
別の見方もある。
仮に適正な速度が60キロなのだとして、その速度をドライバーに守らせるためには法令上の制限速度を40キロにしておかないとならない……と。なるほど。そんな気もする。



私が高校生だった当時、喫煙の習慣は、現在の状況からは考えられないほど、高校生の間でも半ば常識として蔓延していた。
私が通っていた高校でも、全生徒の2割ほどは常習的な喫煙者だった。
底辺校では、半数以上の生徒が喫煙を習慣化させていたと思う。男子生徒に限って言うなら、7割に近かったかもしれない。当時は、それほど、タバコが身近な存在だったわけだ。別の側面から見ると、ニコチンの依存性は、ちょっと悪ぶってみたかっただけのティーンエイジャーを、たったの2週間でジャンキーに仕立て上げることができるほどに激越だったということでもある。おそろしいことだ。


さて、高校生の喫煙は、各学校の生活主任教師の努力や方策とは別のところで、なぜか1990年以降、劇的に減少して、現在では、ほぼ根絶されようとしている。なんという不思議な結末であることだろう。
 タバコの値上げも多少は影響しているのだろう。が、喫煙高校生の劇的な減少の根本的な要因は、おそらく喫煙という文化がポジティブな発信力を喪失したからだ。要するに、タバコは、カッコ悪くなったのである。薄汚いオヤジの、クサくて不経済な習慣。

何が言いたかったのか、説明する。
法令の遵守は、罰則による威圧や、社会的な強制よりも、美意識によって達成されるべきだ、ということだ。



ずっと最後まで読んで、本当に至極ごもっともだし、全面的に賛成だ。


プレオレスものの僕からしたら、いろいろなものを含んでいてそれがプロレスだと思う。その中のたった一つの、何でロープに降られたらもどってこなくてはいけないの?的な一部のことをあげつらう質問一式は嫌いだ。


相撲も、そんなに目くじら建てなくても良いと思う。
相撲を純粋なスポーツだと僕は思ってないし、スポーツと興行の間のせめぎ合いの中で成り立っている世界だと思う。
世間から拒絶しているために、ああいう無理に太っているし、1日5食で稽古したら寝るだけと言ってしまうのもいいことだと思うが、純粋まっすぐ君はそれも許さないんだろうなあと思う。

スポーツ[興行)ジャーナリズムはもう少し大人になってほしいなあと思う。