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坂本龍馬と高杉晋作があと10年、せめて5年生きていてくれたら

龍馬伝
今日の放送で長州の志士、高杉晋作が死にました。
この7ヶ月後、坂本龍馬は剣に倒れます。

この二人は、幕末・維新の時代で僕が一番好きな二人です。

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日 (1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))。
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))

高杉晋作は、坂本龍馬の3歳下、そして同じ年の4月と11月に亡くなります。

1867年頃からの日本はどうなったのか。


1865年以降、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使ハリー・パークス、アーネスト・サトウの助言のもと、長州藩との提携を模索する。
薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。
逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年(1866年)正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。

幕府は同年2月に第二次長州征伐を発令。6月に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、7月20日家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は自ら親征の意志を見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。

大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年)
徳川家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続した。幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいた。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受け将軍就任。
しかし同月に天然痘に罹った孝明天皇が同月25日に崩御。翌・慶応3年1月9日に睦仁親王が践祚した(明治天皇)。
慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、6月22日には薩土盟約が締結される。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから9月7日盟約は解消。
結局土佐藩は10月3日単独で山内容堂が老中に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・藝州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能明治天皇の祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に討幕の密勅が下された。

ところが、徳川慶喜山内容堂の進言を採用し、同じ10月14日に大政奉還明治天皇に奏請しており(在京各藩士には前日に二条城にて諮問していた)、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により江戸幕府による政権は形式上終了した。
しかし、慶喜は将軍職は10月24日に辞職を申し出たが、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)に、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の将軍職辞職を勅許、幕府・摂政・関白などが廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与などからなる新政府樹立が発表された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜への辞官および領地返上が議題となる。会議に参加した山内容堂は猛反対するが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂松平春嶽徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、旧幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。

戊辰戦争(1868年 - 1869年)
江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌・慶応4年(1868年)の正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始した。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩や安濃津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となる。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。旧幕軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、慶応4年の干支(戊辰)に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日(旧暦9月8日)には慶応から明治に改元された。
東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布した。
江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となった。
しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けた。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もったが、5月15日長州藩大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→上野戦争)。
そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は天皇へは恭順を表明するものの新政府への武装敵対の意志を示し、新政府は周辺諸藩に会津への出兵を迫る事態に至った。新政府に劣位の立場で参加することを嫌った仙台藩・戦国時代の旧領回復を望んだ米沢藩などの主導により、陸奥、出羽及び越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、盟主として上野戦争以降東北にいた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立された。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言するが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結した。
その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離された。明治4年旧暦7月14日(1871年8月29日)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した。


大政奉還を成し遂げた坂本龍馬土佐藩ですが、その後のグランドデザインを書く人がいなくなったため、混乱に陥り結局は武力で旧幕府軍を倒すことが必要になってきます。
革命には血は必要ということはあるかも知れません。確かに欧米では革命があったときは、必ず相手方の一番偉い人は処刑されています。

今回の一番偉い人は、徳川慶喜ですが、すでに表舞台から下りてしまっているので、その首をとることは出来ませんでした。結局幕府に殉じる人を多くすることになりました。

ここで、坂本龍馬高杉晋作がいたら、決起にはやる人たちを抑えることができ、もっと静かに政権交代が行われ、もっと民主的な世界になっていたかもしれません。

明治から大正時代にかけては、日本で民主主義が発展する時期になりますが、この両名がいたら、もっと早くそういう世界になっていたかも知れません。

欧米の列強に追いつくことが至上命令の時ですので、この時期の5年とかはあまりにも長い時間になります。
即決で決めていくことが多くあったはずであり、それを決められる人をなくしてしまったんだなあと思います。

これから生まれてきた志士たちも、とても人材がいいのですが、それまでの重さが違うので、説得力が違ってくるのです。


あと、5年坂本龍馬高杉晋作が生きていたら、随分日本は変わっていたと思います。


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